昭和45年12月12日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が立てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
神が顔を洗うてやると。ね、私は、ここんところが頂け、ここのところが素晴らしいと、体験していかなきゃいけないと思います。すぐに言い訳をしようとする。すぐに自分で自分の顔を洗おうとする。それが信心を、いよいよ小さいものにしていく。最近はとりわけ、私は金光様の御信心をこのような有難い信心を頂きながら、その金光様の御信心を小さくしておる人が、沢山あると思うんですね。それは、いわゆる人間心を使う。いわゆる自分で自分の顔を洗おうとする。
そのためには、そのまあ、人から笑われてはならんとか、人から悪口を言われてはならんとかというような事だけに血道をあげる。もちろん、人に笑われる事やら悪口を言われる事が、よい事ではない。けれども、人は分らんのである。知らんのである。本当な事をしていきよる事を笑うたり、本当な事を見て悪口を言うたり。それこそ、人の口には戸が立てられんのである。ですから、こちら自身が本当な事が出来ておれば、それでよいのであるけれども。
例えば道の御ひれいにかかわる。神さまの顔に泥をぬる。そういうような美しい言葉で、この辺のところをごまかしとるように、私は感ずる。道の御ひれいにかかわると、または神様の顔に泥をぬると。そういう小さい考え、ですから、出来るだけ美しい事、いわゆるきれい事に終ってしまう。ま、私共の信心をずっとこう、ま二十年間の信心を思うてみると、ね、本当の事を知らんから悪口を言う人達が沢山んあったですよね。本当な事を知らないから、いわば笑うた人も沢山有りましたよね。
それが段々、笑うておった人が笑われなくなり、悪口を言うておった人でも関心を寄せてきた。なるほど合楽の行き方でなからにゃいけんというようなふうにさえ、分ってきた人が段々でけてきた。その時分に、どうでしょうか、笑われんように悪口を言われんようにと言うて、しておったら、現在の合楽は生まれておりません。もうそれこそ、たとえて言うと、私の事を本気で心配して下さったり、私のしておる事を思うて下さる方達ですらが、そういう生き方ではいかんと言うて忠告して下さる程しであった。
人がどげん言われよるよと、人がこげん言いよるよ、と言うてけれどもね、それこそ人に笑われても、神様から笑われちゃならんというのが、私の生き方でしたから。だからね、なら私共でも人間心が無いかと言うと随分あります。ま、どちらかと言うと根っこが商売人ですから、ね、そういうところは、もうとりわけ感じたんですけれども。段々神様が分らして頂いたら、たとえ人が悪口言うても、人が笑うても、ね、意に介しないわけではない。けれどもね、神様から笑われちゃならんとこういう。
いわゆる神様から笑われん生き方をさして頂くところから、ね、確信が生まれてくるし、信心が大きくなってくるし、そこにおかげが頂けてくる。おかげが現われてくる。なるほど神様じゃなあ、なるほど信心ちゃ有難いもんじゃなという事になってくる。ですから、自分で自分の顔を洗おうとする、自分の顔を立てようとする、美しゅうしようとする事が、いかにね、信心を小さくしたり、いわゆるおかげを小さくしたり、いわばおかげが受けられなくなったりするかという事を分らせてもらわにゃいけん。
人間心ばかり使うたっちゃつまらん。ね、神が顔を洗うてやるとおっしゃるのは、ね、神様がおかげを下さるという事なのだ。だから例えばあれこれと口の端にかけておった人達までが、なるほど神様じゃなあと言うて下さった時に初めて、顔が洗われたわけ、神様が洗うて下さる顔が素晴らしか。なら現在、合楽の場合、ま、ひとつの段階を追うて進ませて頂いておるのでございますから、ならまあだまあだ悪口を言う人は、まだ沢山有りましょう。また笑うておる人も、沢山あるかもしれません。
これはしかし、また、一段と大きくならせて頂いておるわけでありますから、ね、自分で言い訳したり、自分で顔洗うたりしようとせずに、いよいよおかあげを頂く、信心の、本当の信心と確信されるところを進めてさえゆけば、また神様が顔洗うて下さる事になる。私はね、信心が巧者になると、体験を積んでゆくと、いうような事はね、年限が長いという事だけでは駄目だと。いわゆる信心のキャリアとでも申しましょうかね。
という事は、私は例えば人の口の端にかかるような事があってもですね、笑われるような事があっても、または悪口を言われるような事があってもです、それをひとつひとつ、おかげにして、いわゆる神様から顔を洗うて頂くたんびに、信心がいよいよ強うなり、信心が大きゅうなるという、その繰り返しがです、私は信心のキャリアでなからなきゃならんと思う。長年信心しよるという事ではないと思う。
よく、いまはあんまり聞きませんけれど、聞きました、?お届けさして頂いた、例えばとりわけ病人が出来ます。医者が見離したというような病人が、どうでも助けてもらいたいと思います。そこでお願いをする。どういうお願いをするかと言うとですね、これだけ例えば信心させて頂きよって、おかげを落とすような事があったらです、神様の顔に泥をぬるちゅう、だからどうでも助けて下さいと。なるほど筋が通ったようであってですね、自分の顔ばっかりを気にしとるという事になります。これは。
金光様の信心しよってから、あげな不幸な事があった。あげな難儀な事があったと言われるような事があっては、神様の顔に泥をぬる。だから不幸な事がございませんように、いわばここに助からんところをひとつ助けて頂いて、もし助からなかったら神様ん顔に泥をぬるというような思い方。こういう考え方が一番小さい、つまらない考え方だと思う。信心させて頂きよっても、不幸な事にもあう、ね。
助からんで死ぬ場合もある。なるほどならそういう時に、あっちは金光様の信心しよってばってん、と例えば言う人があってもです、その次に、その先にです、輝かしいおかげを頂いたらいい。ね、私はこの九十六節を、そういう事を教えておられるんだと思う。ところがです、ね、その次の輝かしいまでのおかげにしきらんから、神様の顔に泥をぬる事になるのです。本当の意味で。
いわゆる神さまの御ひれいに傷をつけるわけです。ですから次の輝かしいおかげ、いわゆる難をみかげにしていけれるです、信心なんです。そんなら誰が笑うたって、悪口言うたってです、ね、神様はそんな事で顔をよごしなさるような、しかともない神さまじゃないち。けれども、神が顔を洗うてやるとおっしゃるが、神様が顔を洗うてやるというのはね、時期を待てば神様が顔を洗うて下さるという意味じゃないです。
今は人から笑われよるばってん、いつかは神様が顔を洗うて下さる、神様が顔を立てて下さると、いつかは、いつかはでです、神様が顔立てて下さる、神様が顔洗うて下さるというような事では、いつ立てて下さるやら、洗うて下さるやら分らんです。そこにいわば、難をみかげにし得るだけの信心というものがです、なされなければいけんのです。難をみかげにしていく。
例えば笑われるような事、悪口を言われるような事はです、ね、言うておったり、笑うておったりしておる人が、はあ、これはほんに笑うておった事が恥しい、悪口を言うておったのは間違いであったと気付かせて頂くという事は、例えばそんならここでいうなら、私がおかげを受けるという事なんです。神が顔を洗うてやると仰る。ね、おかげを受けるという事が、神様が顔を洗うて下さる事になるのです。
確かに、この神様はですね、難にあって喜べ、難はみかげと教えて下さるが、ね、難のたんびに信心が飛躍しておる、難のたんびにおかげを受けておる。そういう私は体験が積まれていくところにです、ね、確信に満ちたいうなら喜びの生活と、信心生活が出来る。そういう積み重ねがです、信心のキャリアになるのだと思うです。長年信心しておるという事じゃない。ね、体験を積んでいくだけじゃいかん。
自然がね、自然に顔を洗うて下さるというような事ではないという。ね、それこそ人の噂も七十五日悪口言よった人でもです、悪口を言わんようになるというのはです、なるほどと合点させきらずに、ただ笑われんようになっただけじゃいかん。神様が顔を洗うて下さるというおかげを頂かなければね、出来ん。その時には笑うておった人も、悪口言うておった人も、そういう事は影を潜めるだけではなくて、矢張り成程と信心が認められる。私は、神様の御ひれいを輝かすという事は、そういう事だと思う。
先を知ってはおらん、信心の無い者、信心の薄い者は、先を知っておらん。けれども、確信にいわば満ちた信心をさせて頂いておる者、いわゆるたとえば難があっても、この難は必ずおかげの土台になるんだ、おかげの元になるんだと確信を持っての信心をさせて頂いておる人はです、たとえ悪口を言われても、それを決して言い訳をしない。もちろん、その言い訳をしないというところに、まだまだ信の足りなさ、ね。
信心の不行届がです、たとえ一時ではあっても悪口を言われたり、笑われたりすることに対しては、心から詫びて改まっていく、相済まん事でありますと。私はもう今日、一番、実感します事は、今度の幹三郎の病気、そして退院というおかげを頂きましたわけでございますが、今度のそのことで、私自身、一番大きくおかげを受けた事はね、私の信心が非常に大きくなった事です。
これはもう誰にも分らない、私だけの事です。同時にもちろん確信がいよいよ強うなったことはもちろんです。いわば信の力が今まで五十あったならば、それが百の力になったという事は、自分でもなんか美味しい物を食べると身に付くようにあるという、これは身に付くように、自分に感じております。同時に、これは誰も分りません。私の信心がひとまわりじゃなくてから、もう大変なひとつの大きさを自分で感じます。
これはもう本当に有難い事であったと思います。お互いが大きなおかげを頂きたい。そんならやっぱり自分自身が大きゅうならにゃいかんです。おかげの受けものが小さくて、大きなおかげを願って、おかげの受けられるはずがありません。ね、浅い所に大きな魚が住むはずがありません。ね、言うなら雑魚ばかりです。自分の信心の浅さ。自分の信心が浅い、だから雑魚ばかり。
いや自分の信心が浅い。その浅い信心がですを持ってなら、大きなおかげいわば鯨の住む様なおかげと仰るが、鯨の様なおかげを願った所でもう頂ける筈がない。そして神様はどうしておかげ下さらんじゃろうかなんて言う事になってくる。だから自分の信心の愈々広さ、深さというものをです、作っていかねなければなりません。浅い所に大きい魚が住む筈がない様に、信心が浅くて大きなおかげが頂かれる筈がない。
そんならそういう信心がです、いっぺんに飛躍するというような事はありません。やっぱり、ね、言うならば一歩一歩、大きくなっていくのであり、信心が深められてゆくのです。ですからそれはどういう時に大きくなるのか、どういう時に広められるのかと言うとです、世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも神のひれいじゃと仰るが、世の人があれこれとです、例えば信心、私共の信心。
また私の信心、皆さんの信心をです、人が笑うたり、または悪口を言うたりしておる時こそ、ね、おかげであるという事が分ります。そういう時にこそ、私共が一段と信心を深め、大きくしていかなければならん事が分ります。なるほど、神のひれいじゃという事が分ります。ね、人に笑わせて、人に悪口を言わせて、ね、どうぞ大きゅうなってくれよと、ね、「叩かれて強うなれ、笑われて大きゅうなれ」と、これは私がもう二十年位前に頂いた御理解、御教ですよね、私が。
叩かれて強うなれ、笑われて大きゅうなれ。どうして笑うかと言うたり、叩かれんで済むようにその自分をかぼうたり、ね、そういう手もありますよね。けれども、それでは信心がいつまでたっても、強くもならなければ、大きくもなりません。ね、と言うて、笑う者には笑わせとけと言うて、自分は改まりもしないであっては、一生笑われ通しでありましょう。ね、人から笑われても、神様から笑われてはならんという信心修行が、その間に出来なければならん。
だからそういう都度にです、信心が例えば大きゅうなる、または信心が深うなる。だから大きな深い、言うなら鯨の住むようなおかげも受けられる。その受けられた時こそ、神が顔を洗うてやると仰る事になるのです。なるほど、ね、ちったあの人達は信心にぼうけちゃござらんじゃろうかと、人が笑いよったばってん、やっぱあげなおかげ頂かっしゃった、やっぱ神様のおかげなあという事になるのです。
例えば御本部参拝などでもですね、例えばま親先生が御本部参拝される時には、どうでもお供させて頂きたい。その為にはどうぞ時間のお繰り合わせも頂きたい。又はお金のお繰り合わせも頂きたいと、願いに願っておられる方達がその沢山おられます。ね、場合にはお繰り合わせが頂けずに、都合が出来たりまたはお金のお繰り合わせが出来ない時等はです、それこそ借ってでもお参りをしたり、いわば人から嘘を言うてからでも、時間の都合を作ってお参りすると言う様な事があります。過程においては。
それを信の薄い人が聞いたり、信心の無い人が見たりしたら、あげんまでしてまで参らんでもよかろうとこう言う。借金おいかぶって参りござる、しらごつまで言うちから、会社休んでから参りござる、金光様の信心ちゃ、あげなこつでよかじゃろうかと言う人もある。けれどもね、それこそ神様にひとたびです、親先生がおい出られる時には、絶対、お供させて頂くというお願いをしとる、お取次を頂いとる。
だからいわゆるそこんところを貫かなければ、神様に笑われる。だからそこに人が悪口言うても、笑うてもです、これはまあ小さい事として、そこを敢然としていく、乗り越えていく。そこんところをです、ね、人にそげなこつ言うて悪口言われたり、しらごつまで言うちから、私は、しらごつ言えという意味じゃないですよ。けれども、しらごつまで言うちから御本部参拝をする。
金借ってからまで、お参りをすると言う様な事は、かえって神様にご無礼になりはせんじゃろうかと、そういう考え方が、非常に最近の私は、金光様の御信心する人達に多うなっとるように思う。それがいかにも信心のように言う。何故ってその初めにですよ、ね、親先生がたとえば御本部参拝される時には、どげなこつがあったっちゃ、お供させて頂きますと、神様に誓っておる、願っておるならばですよ、神様に誓った方ば実行するが、ほんなこつでしょう。
だから人間にしらごつ言う位の事は、それはもう小さい小さい事になるのですよ。だからその行き届いた考え方と言うか、人間心の強い人なんかは、その辺で必ず自分で信心を小さくしてしまいます。それかと言うてです、そのようにして、なら神様に笑われてはならんという信心を続けていきながらですよ、ね、おかげが受けられんなら、これはおかしいですから考えなきゃいけません。
例えば久留米の佐田さんなんか、御本部参拝と言や、親子三人、場合には夫婦でというようにお参りになりますよね。ご主人の方なんか、随分、やはりその人間が出来ておられますから、人間的な考えが非常に強いわけです。あれだけの大きなお店をなさっておられますから、この忙しかつにです、お参りしてと、まあ、店の者がとやこう言う事にも、非常にひっかかっておられた、ね。
ところが、段々その体験がものいうと言うか、神様が分ってくればくるというほどにです、これはどげな事があってもという一念がこう、貫かれるようになってきた。ところがですね、最近ではやはり主人の佐田さんがお参りされるという事がです、店の人達もだんだん認めてもらえる、分ってもらえれるようなおかげが表れておる、最近は。例えばあの佐田が、本店の方が倒産された時なんかの事から、ずうっと、こう思うてみると、そういう実があげておられる。
今度もま十二月の商売の忙しい月であるのに、夫婦で参ってと言う者は言うたかもしれません。さあところが帰ってみたところが、大将、あなたがおんなさらんうちに、あすこんいわば当てしてなかった、集金が出来ないはずじゃった所の大口の集金が入ってきた。おんなさらんうち。それだけじゃない、あれやらこれやらがです、主人がおらんけれども、このようにおかげを受けておるという事実が表れてきた。
正しく所謂恭造さんの顔を、神様が洗うてやりござる訳です。だから信心がもっと大きくなりもっと広くなって来るとです、そんならもっと広い意味合いにおいて、笑われたり悪口を言われたりする様な事になって来るかも知れんけれども、そん時はそん時でそれをおかげとする事によってです、神様に顔洗うて貰った時にはもう一段とおかげが輝かしい、大きな深いものになっておるという事になっていかなければならない。
そういう体験をです、私は、積み上げていくという事がです、ね、そりゃなかなか、やはり、その信心のキャリアを持っておられるからと、あの人に相談すりゃ、あの人に話を聞きゃ、助かるといったような事になってくると、私は思うです。信心ばかりは、やっぱそういうひとつの体験の積み重ねなんです。だから体験を積み重ねてゆくという事がです、その体験のつどに大きゅうなっていく、信心が強うなってくるという事になっていかねばならんと思うのです。
ね、神が顔を洗うてやると仰る。今は人から笑われよるばってん、いつか神様が顔を立てて下さる。と言うて、一生、顔を立てて下さらんで、笑われっぱなしでしまえたなんてといったら、どうなります。ね、いつかいつかでは、神様は顔を洗うて下さらんのです。神様に顔を洗うてもらうという事は、おかげを頂くという事です。それでなおかつ、おかげが受けられんならです、自分の信心の内容をもういっぺん検討して、おかげの受けられるはずはないのですから。
人から笑われたっちゃ、神様から笑われちゃならんと、いかに口で言うとってもです、神様がいつまでも顔を洗うて下さらんとするならばです、そこに私は、猛反省させてもろうて、おかげを頂いていかなければならん。初めて神が顔を洗うて下さった、それこそスッキリしたいわゆるおかげ。ね、なるほど神様じゃなあと、なるほど信心じゃなあと、ね、言えるおかげを頂いた時に、私は、神様から顔を洗うて頂いた、という事になると思うんでございます。
だから世の人があれこれと神の事をという事は、神様の事、金光様がどうというだけじゃない。ね、例えば私共が頂いておる信心、なら私の悪口を言われる事は、そのまま金光様の悪口を言われる事と同じ事、とやこう言うという事は、そうなんです。ね、ですから私共は、そういう言われるたんびにです、ね、信心が大きく、確信に満ちた、いよいよ信心を頂かせてもろうて、おかげを受けていくという事。
顔を洗うて頂くたんびにです、ね、信心の本当の意味においての体験が積み重ねられていく。そういう体験の積み重ねに立っての信心。だから神の事をとやこう言う、または言われるという事がです、ね、これは、ね、もうそれこそもう本当に何と言うでしょうかね。例えば平穏無事ばかりを願うというような信心でしょうかね。は、神様に笑われることがあっちゃならん、金光様の信心しよってこうといったようなね、そういうその上品な信心は、本当に一掃しにゃいけません。
本当に私は、神様に笑われん信心とはですね、場合によっては絶対、人が笑うたり、悪口言うたりします。だからあれが悪口言われんごととか、笑われんごとといったような事ではね、決して大きくもならなければ、おかげも受けられん。いや、むしろ神様から信心させて頂いておればね、絶対悪口は覚悟してかからにゃいかん。笑われる事も覚悟してかからにゃいかん。
そういう信心が、最近私は本当に、段々少なくなってきたように思う。金光様の信心すりゃ、笑われちゃならんとか、悪口を言うちゃならんとか、それでいっちょん、おかげは頂ききらん。笑われても悪口を言われても、ね、むしろそれが宣伝になるくらいにならにゃいけません。ほんに笑いよったもんが、なるほどと平伏してくるような、おかげ頂かにゃ駄目です。
だからもうこれは絶対ですね、笑われたり、悪口を言われたりぐらいな信心でなからなければ、その人の信心は成長せんと思うです。ただ人間が出来てござるから、誰から聞いてもあの人は素晴らしかと言うだけでは、おかげにゃならん。場合には、悪口を言われにゃならん。笑われてもよい。そして次に神様に顔を洗うてもらうというおかげを頂いていく事がです、私は、信心がいよいよ大きく成長していく事だと思うですね。
どうぞ。